翻訳と辞書
Words near each other
・ リチャード・ラウンドツリー
・ リチャード・ラウンドトゥリー
・ リチャード・ラグラヴェネーズ
・ リチャード・ラシッド
・ リチャード・ラッシュ
・ リチャード・ラッシュ (政治家)
・ リチャード・ラッシュ (映画監督)
・ リチャード・ラッセル Jr.
・ リチャード・ラッセル・ジュニア
・ リチャード・ラミレス
リチャード・ラムリー (初代スカーバラ伯)
・ リチャード・ランス
・ リチャード・ランセロッティ
・ リチャード・ランダー
・ リチャード・リトル
・ リチャード・リンクレイター
・ リチャード・リング
・ リチャード・リー
・ リチャード・リーコック
・ リチャード・リーニイ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

リチャード・ラムリー (初代スカーバラ伯) : ウィキペディア日本語版
リチャード・ラムリー (初代スカーバラ伯)

初代スカーバラ伯リチャード・ラムリー(Richard Lumley, 1st Earl of Scarbrough, PC, 1650年 - 1721年12月17日)は、イギリスの貴族・軍人。ラムリー子爵リチャード・ラムリーの息子ジョン・ラムリーの長男で同じく軍人のヘンリー・ラムリーは弟。
1658年に父が急死、5年後の1663年に祖父が亡くなりアイルランド貴族のラムリー子爵を継承した。当初カトリックとして育てられたが、1685年プロテスタントに転向して上院議員となった。
1679年イングランドチャールズ2世の弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)がスコットランドへ向かうと同行、翌1680年モロッコタンジールに遠征、同年に王妃キャサリン付きの騎兵連隊隊長に就任、1681年にチャールズ2世からイングランド貴族としてのラムリー男爵を叙爵され、1684年に財務官に任命された。翌1685年にチャールズ2世が亡くなりジェームズ2世が即位、チャールズ2世の庶子モンマス公ジェームズ・スコットが反乱を起こすと鎮圧に向かい、姿をくらましたモンマスを捕縛(モンマスの反乱)、恩賞として王太后キャサリン付きの騎兵第9連隊隊長にされた。しかし、ジェームズ2世のカトリック寛容政策に同調しなかったため1687年に罷免された。
1688年6月、シュルーズベリー伯チャールズ・タルボットデヴォンシャー伯ウィリアム・キャヴェンディッシュ、ダンビー伯トマス・オズボーン、ロンドン主教ヘンリー・コンプトンエドワード・ラッセルヘンリー・シドニーとの連名でオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)に招聘状を書いて送り、12月にイングランド北部のニューカッスル・アポン・タインを確保、翌1689年にウィリアム3世・メアリー2世夫妻が即位して名誉革命が実現すると恩賞として枢密院議員、寝室係侍従、近衛騎兵第1中隊隊長に任じられ子爵に昇格、1690年にスカーバラ伯爵に叙爵された。
大同盟戦争ウィリアマイト戦争でウィリアム3世に従軍してボイン川の戦いスペイン領ネーデルラント戦線に参戦、1697年レイスウェイク条約が結ばれると引退して1699年に近衛騎兵第1中隊隊長も辞職、1716年に任命されたランカスター公領大臣1717年に辞任、以後はダラムのラムリー城の拡張に努めた。1721年に死去、長男のヘンリーに先立たれたため次男のリチャードが爵位を継いだ。
== 子女 ==
ヘンリー・ジョーンズの娘フランシスと結婚、6人の子を儲けた。
# ヘンリー(1685年 - 1710年)
# リチャード(1686年 - 1740年)
# メアリー(1690年 - 1726年) - ハリファックス伯ジョージ・モンタギューと結婚
# ウィリアム(? - 1709年)
# トマス(1691年 - 1752年)
# アン(? - 1740年)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リチャード・ラムリー (初代スカーバラ伯)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.